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2013年11月29日撮影

  最近更新頻度が少ないので、こんなこと言っても実感が無いと思いますが今月初の記事となります。

  突然(前置きとも写真とも)関係ない話になりますが、「ガラパゴス化」という言葉について考えたいと思います。ガラパゴス化といえば、日本のマスメディアが日本企業の業績が不振なときに批判の常套句として使うとか言われますが、そもそもどういう意味なのでしょうか。

  言葉を見ただけでは分りづらいので、まずは「ガラパゴス化」という言葉を分析してみましょう。

1.「ガラパゴス」

ガラパゴス諸島
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座標: 南緯0度40分0秒 西経90度33分0秒
世界遺産     ガラパゴス諸島
(エクアドル)
ガラパゴス諸島の衛星写真
ガラパゴス諸島の衛星写真
英名     Galapagos Islands
仏名     Iles Galapagos
面積     7,665.14km²
登録区分     自然遺産
登録基準     (7),(8),(9),(10)
登録年     1978年
拡張年     2001年
IUCN分類     II
備考     危機遺産登録(2007年-2010年)
公式サイト     ユネスコ本部(英語)
地図
ガラパゴス諸島の位置
使用方法・表示
バルトロメ島
サン・クリストバル島の市街地
ガラパゴスゾウガメ
ガラパゴスリクイグアナ
ウミイグアナ
人を怖れないアシカ
アメリカグンカンドリ
アオアシカツオドリ
ガラパゴスアホウドリ
セイモア・ノルテ島
シュモクザメ

ガラパゴス諸島(ガラパゴスしょとう、スペイン語: Islas Galápagos)は、東太平洋上の赤道下にあるエクアドル領の諸島。Islas Galápagos は「ゾウガメの島」という意味で、ガラパゴス諸島の名は、ゾウガメの甲羅が馬の鞍に似ていることからスペイン語で馬の鞍を意味する galápago からきている。正式名称はコロン諸島(スペイン語: Archipiélago de Colón)で「コロンブスの群島」を意味する[1]。行政面ではガラパゴス県にある。約2万3000人が居住し、主要言語はスペイン語。

ウィキペディアより抜粋)



  何だかよくわかりませんが、ガラパゴス諸島は貴重種が多く世界遺産に登録されています。他の地方には生息していない動植物が多いことから「独特性」という意味で使っていると考えられます。

2.「~化」


  この「~化」という言葉は、ずいぶんと便利な表現(笑)です。変化、感化、転化、浄化、酸化、倍化、退化、巨大化、標準化、一般化、平均化、温暖化… 例を挙げればキリがないですが、今の日本語は「~化」があふれているのは確実でしょう。

  とにかくインパクト!が重要な昨今のマスメディア業界においては、このようなテンプレート化した言葉が多用されるのも傾向としてあるのでしょう。

3.カタカナ表記


  ぼうっとしているとわかりませんが、新聞ゴシップ誌NHKフ○テレビ堅苦しい人ふざけている人優しい言葉遣いの人ドギツい言葉遣いの人、比較してみると、いずれも後者のほうがカタカナ表記を多用している傾向があります。

  カタカナは片仮名で仮名の一種でしか無いと言われればそれでお終いですが、カタカナ表記にはインパクト!(強烈な印象)を与えるという効果があります。特に目立つのが批判系の記事で、例えば日刊○ンダイのようないつも批判していそうな記事を読んでいるとやたらとカタカナ言葉が目につくことがわかります。

  そして、これは最近特に多いことですが、「物事の記号化」に使っている例もあります。代表的な例があの事故を「フクシマ」とか言っちゃっている例ですが、正直、吾輩はこの表記に賛同できません。海外に広めるのが目的だとすれば「Fukushima」で十分ですし、広島や長崎と同じだと言われても本質的なものが違いますし、あくまで個人的にはカタカナでわざわざ表記する理由が見当たりません。しかも、こうやって尖った表現にすることで「福島に対する侮辱だ」という意見もあります※。

  また、もう一つの理由としてそれ以前の個人の好き嫌いのレベルにはなってしまいますが、正直、カタカナ言葉ばかり使う人を見ると日本語が不自由なのか頭が悪い人を演じているのかと思ってしまいます。

「フクシマ」とカタカナ表記することについて
「福島」を「フクシマ」と呼ぶのは、もうやめよう!(田原総一朗氏)




  話をガラパゴス諸島に戻しますが、「ガラパゴス化」ってそんなに悪いことですか?何でもかんでもグローバル化の波に乗って、世界の境界を取っ払って全世界同じ土俵で戦うことがいいと思っているのでしょうか?と思うことがあります。

  正直、それは個人の思想信念のレベルの話ですから賛成しようと批判しようと自由ですが、ガラパゴス化しても別にいいのでは、と思っています。というのも、いくら世界がグローバル経済だ!グローバル化万歳!世界皆一緒!となっても一緒にはなれない部分があるからです。

  それは、地域や国の伝統・特色だと思います。日本人はガラパゴスと聞くと「世界から孤立した」「時代遅れの」「技術だけの無用の長物」みたいな負のイメージを抱く人が多いですが、逆に考えればその国・地域の他には真似できないことだと主張することだって出来ます。日本人は特にそうですが、「周りと同じ」「常識」が常に正しいこと・良いことだと思い込んでしまいます。

  現実のガラパゴス諸島はどうでしょうか。管理人は当然行ったことはありません(笑)が、他の地域にはない貴重種があるお陰でガラパゴス諸島としての価値を高めています。これがどこにでもいる種が密集しているだけでは何の価値もありません。

  最近は一時期倒産寸前と言われたシャープやパナソニックなども今や回復期に向かっていますが、それは否定しません。しかし、アップルや某韓国企業など(ソ○ーも入るかも)のように「大衆受け」する商品だけ作ればそれでいいのでしょうか。まあ、人の考えはそれぞれですから敢えて結論は言いません。

  このような話は別に家電に限った話ではありません。音楽においても同じことが言えます。例えば、今のピアノやギターなどの楽器は「12平均律」という調律方法で音が決められており、我々の大半はその音の高さを利用して音楽を作ったり聞いたりしています。
(平均律?と思った人も多いでしょう。それほど12平均律が一般化しているのです。)

  しかし、「音律」とググっても、ピタゴラス音律、純正律、中全音律、など色々な音律があることがわかります。実は、これは昔の音楽の偉人たちが考えた音高の決め方なのです。今においても12平均律に反対し、敢えて今の時代主流ではない音律を用いて音楽を楽しむ人もいます。勿論、吾輩は他人の思想を弾圧したり抑制したりする独裁主義者ではないですから、別にどう考えようが勝手です(笑)。

  とは言え、「画一化」された社会というのはなにか物足りない気がします。そりゃグローバル資本主義の今の社会では「より多くの利益を稼ぐ」事こそが美徳とされていますが、何だか人間味のない世界に見えてしまいます。

  近年は社会の画一的な性格が強くなりすぎてしまったせいか、そのような風潮に抗議し、寧ろ個性を重視すべきだという考えの人も増えています。もしかしたら、30年後には「ガラパゴス化こそが正しい考え方だ!」という考え方が流行っているのかもしれませんね。







  流石に写真の話入れないと怒られると思うので、追記します。

  写真の世界も、近年はスマートフォンの広がりで写真を取る機会を与えられた人はどんどん増えています。しかし、人によって目的は異なり、作品作りとして楽しむ人、物として売るために撮る人、記録するために撮る人など色々います。まあ、色々な人がいて当たり前です。

  ところで、商業的に写真を撮る人に陥りがちな現象というのを発見しました。それは、「写真の特徴の画一化」というものです。「売れる写真」というものはどうしてもある程度の傾向があるものですから、写真素材販売サイトなどを見ていると「奇抜な写真」や「個性的な写真」というのはあっても少ないです。

  それに対し、「アート」として写真を楽しむ人は対極にあります。アートと言うのは他人を侮辱したりしない限り基本的に自由に成立します。その最たる例が4分33秒だったりします。4分33秒という時間はともかく、一度も演奏しないという発想だけで作品として成立するのは面白いです。

  ノイジーな写真、手ブレしている写真、ボケまくって何が何だか分からない写真、これらは一見ただの失敗写真で、こんな写真を撮った人は下手糞過ぎると言われるかもしれませんが、本人がこれは作品だと言い張っているのであれば作品なんじゃないでしょうか。自分に対する言い訳ではないですけど…